2016年4月3日 福島の博物館は原発事故をどう伝えるのか

http://www.nippon.com/ja/in-depth/a05204/

福島の博物館は原発事故をどう伝えるのか福島第1原発事故は日本史の一部に刻まれる重大事故だ。史実としての事故の伝え方に関する行政と市民団体の見解は大きく異なる。博物館での展示企画をめぐる「静かな対立」をレポートする。

1

 

対照的な二つの博物館

福島県では、県庁職員たちが福島第1原子力発電所の事故に関する大掛かりな展示の準備に追われている。2016年夏、三春町に200億円もの費用をかけて整備・運営される「福島県環境創造センター」の常設展示が始まる。県内の小学5年生の社会科見学にこの展示見学が組み込まれることも検討されている。映像や最新IT技術を駆使したインタラクティブな展示の目的は、事務局いわく「展示体験を通じて、県民の不安や疑問に答え、放射線や環境問題を身近な視点から理解し、環境の回復と創造の意識を深める」ことだ。

三春町から約40キロ離れた白河市では、地元住民グループが中心となって木造平屋建ての施設に県の展示とは全くかけ離れた展示を企画している。展示の焦点は、いかに国の対応が災害を悪化させ、事故後には福島県民の権利に無配慮だったかにある。この「原発災害情報センター」は2013年、福島の経験と原発事故の教訓が忘れ去られないように、民間からの3000万円の寄付金によって開設された。

5年前に日本、世界を震撼させた原発事故をいかに記憶するのか。県主導の「福島県環境創造センター」と民間の「原発災害情報センター」のアプローチは全く違う。県のプロジェクトは資金力も影響力も民間とは比較にならないほど大きい。だからこそ、行政が原発事故をどう記録するのか、その姿勢を問う必要がある。

原発災害情報センターの展示企画に関わる福島大学の後藤忍・准教授は「福島原発事故の被災者たちは、県立の環境創造センターでの展示では、国や県にも責任がある今回の事故の教訓をきちんと伝えられるはずはないと懐疑的です」と語る。

「起きたことを順番に並べる」ことが歴史ではない

福島で史実としての事故の解釈をめぐる行政と民間の“対立”の先例としては、熊本県の水俣市の事例がある。世界史上で最も悲惨な産業災害が起こった海沿いの町だ。チッソ株式会社の化学工場から何十年にもわたり産業廃棄物が水俣湾に廃棄されたために、魚介類が汚染され、それらを食べた何千人もの住民が水銀中毒によって死亡、もしくはひどい疾患に苦しむこととなった。半世紀を経た今でも、地域の公立、私設の博物館や資料館では、水俣病をめぐる史実の解釈が異なったままだ。

水俣市立水俣病資料館」は、1993年、「水俣病を風化させることなく、公害の原点といわれる水俣病の貴重な資料を後世に残す」ことを目的に60億円の費用をかけて開設された。この施設ではビデオやパネル展示を通じて水俣病の歴史と科学的原因を伝え、被害者たちも語り部として体験談を聞かせてくれる。

だが、非営利の被害者支援者団体「水俣病センター 相思社」の遠藤邦夫理事は、この資料館は本当の意味で水俣の悲劇の教訓を伝えていないと語る。「起きたことを順番に並べれば歴史、というわけじゃないと僕は思っている。“事実” は確かに書いてあるんです。起きたことはね。だが、それはどういう意味を持っているのか、資料館では踏み込んで伝えていません」。

1988年以来、相思社は独自に「水俣病歴史考証館」を運営している。しいたけ栽培小屋を改装して展示場とした考証館には、漁具や抗議運動ののぼり旗、その他さまざまな水俣病ゆかりの物品が展示されている。その目的のひとつは、水俣病患者たちの闘いと政府、企業の責任、過失を記録するということだ。「水俣病歴史考証館では、水俣病は、チッソと国の犯罪行為であったという観点が出発点です」と遠藤氏は言う。「考証館」は、水俣病患者たちの悲壮な闘いを風化させないという使命を担っているのだ。

汚染、廃棄物問題は「展示の目的に該当せず」

福島原発事故関連の展示でも、水俣と同様に、行政と市民団体の間で、その焦点は大きく異なる。県立の環境創造センターは、昨年、交流棟に常設される展示内容の概要を公表した。交流棟の展示はいくつかのコーナーに分かれる。「フロム3.11スクエア」では、メルトダウンからの出来事を時系列に展示、「放射線ラボ」では放射線に関する科学的解説や被ばくを低減する方法などを解説する。そして、「環境創造ラボ」では、福島県の再生エネルギーの導入や自然との共生、「循環型社会」に向けた試みが紹介される。

2014年10月の東京新聞の報道では、この展示は「原子力に依存しない福島」をうたっているものの、その企画には何人かの原発推進派と目される人物が関わっていると指摘している。

2014年、交流棟施設の展示企画が着手されてまもなく、反原発市民グループ「フクシマ・アクション・プロジェクト」(FAP)が展示に関する懸念を表明した文書を県当局に送った。中でもグループが要求したのは、センターの展示で放射能の健康リスクを過小評価するなということだった。それ以降、FAPの代表者は展示内容に関し、県担当者と8回にわたり話し合いの場を持った。FAPのサイトで公表されているその話し合いの記録によれば、この1月の段階で、FAP側は県の展示内容は原発事故による汚染水や除染で出た大量の廃棄物の処理問題など、現状の課題を十分に説明していないという意見を述べている。

福島県の担当者は、政府や企業の責任、放射能被ばく線量レベルの上限値が引き上げられたことや、汚染、廃棄物問題に関しては「展示の目的に該当しないので、展示内容には含まれない」との見解。展示の目的は「放射線や環境に関する学習活動の支援」にあり、その内容は専門家たちから成る委員会で検討、決定していると説明する。

原発災害情報センターの長峰孝文館長は、「福島県環境創造センターの目的は放射能安全神話を形成することだと考えています」と批判する。災害情報センターでは現在、前出の福島大学の後藤氏が、常設展示の準備を進めている。原子力発電に関する各国の教材を比較することで、福島第1原発事故が発生する以前の文科省の原発推進への偏りを浮き彫りにすることがねらいだ。もうひとつの展示では、少数の市町村を除く福島県の自治体で、住民の甲状腺ガン発症のリスクを低減するヨウ化カリウム丸がなぜ迅速に配布されなかったかを検証する。

「感がえる知ろう館」―現実を「ありのまま」に伝えたい

市民主導だが、政治的メッセージには力点を置かない博物館が福島第1から25キロ離れた川内村にある「感がえる知ろう館」だ。廃校になった学校のプレハブ音楽室を利用した資料館では、原発作業員の防護服や、放射能測定器、写真や村のニューズレターなど、メルトダウンに関係する資料、物品を展示している。

「感がえる知ろう館」を2012年に開設したのは、9年前に埼玉県からこの地に移住したジャーナリストの西巻裕氏だ。原発事故発生後、何か自分でも行動を起こしたいと思っていたが、事故の規模の大きさや複雑さの前に、数カ月間は無力感を感じていたそうだ。だが、長年の友人である作家の田口ランディ氏に、資料館を開設したらいいのではという提案を受けて、実現に動いた。その際、展示内容に干渉されるのを避けるため、公的な助成金などは一切申請しなかった。

「国に責任がないと思わない。でも、国を糾弾するための展示ではない」と西巻氏は言う。展示の解説は最小限。「できればお話をして、一緒に考えてほしいと思うから」だ。ただ、西巻氏が常駐しているわけでもない。「ここの活動は、この村の住民としての私自身の日常生活があることが前提。そのことも、なるべくありのままに伝える意図があります」。

それぞれに「都合のいい」解釈

県や国が主導した展示企画と市民運動家のそれとでは、大規模な環境災害に対する視点が違うのは当然だ。災害の責任を一部問われる政府の担当者が、災害を記録する博物館の企画で客観的なアプローチを取れるとは思えないし、被害者を含む市民団体が企画する場合は、やはり主観的にならざるを得ない。福島原発事故の場合は、それぞれ原発に関する異なる見方が際立つことになる。

アプローチが違うからこそ、行政主導、民間主導の展示の両方を見学することで、事故の理解を深めることもできるはずだ。だが、一般市民の多くが両方に足を運ぶとは思えない。福島大学の後藤氏が指摘するように、彼が関わる原発災害情報センターの600倍以上の予算を投入した県の環境創造センターは、PRもされるし、社会科見学で子どもたちも見学する。民間の小さな博物館ではとても太刀打ちできない影響力だ。

一方、行政主導のさらに大きなプロジェクトも動いている。国と県主導で、福島県沿岸に「東日本大震災・原子力災害アーカイブ拠点施設」という新たな巨大博物館を10年以内に整備しようとしているのだ。

最後に、水俣病センター・相思社の遠藤氏の言葉を再び引用しよう。「僕らは、そこで起きたことを、そこに暮らしている人たちが語ることを出発点にして、表現する、伝えることが全てだと思っています。本人にそれができない場合は、周りがするのですが、行政側、市民側が解釈すると違うことになってしまう。それぞれ自分の都合のいいように解釈しがちなんです」。

(原文は英語。バナー写真:福島第1原子力発電所に隣接する地域/時事)